Atelier Bonryu

pinhole photography

 
 

ピンホール写真_研究室

ピンホール写真の歴史ー江戸の絵師達

葛飾北斎、滝沢馬琴と江戸の絵師達:日本ではピンホール現象はいつごろから知られていたのでしょう?

 日本で最初にピンホール現象に着目したのは誰であるかというと、これは必ずしも明らかでありません。江戸時代より前の時代の文献でピンホール現象について書いてあるものを私は知りません。江戸時代の科学技術というと、当然のように、平賀源内(1728 - 1780)の名前が出てきますが、平賀源内がピンホール現象に直接関わったかどうかは定かではありません。中川邦昭著の「映像の起源」によれば、1645年にオランダからもたらされた「暗室鏡(doncker camer glassen)」が出島のオランダ商館の輸入品仕訳帳に記載されていて、翌1646年の平戸オランダ商館長の日記に同一と思われる物品の記載のあるものがカメラ・オブスキュラについての我が国最初の記録であろうとされています。カメラ・オブスキュラが輸入されて以来、これは国内に普及したと見られますが、当時は、これを「暗室写真鏡」、「暗室鏡」等と色々な名称で呼ばれていて、後に、「写真鏡」という名前が定着します。例えば、杉田玄白(1733 - 1817)の「蘭学事始」には「写真鏡」としての記述があります。「写真鏡」の名称がいつから使われ出したかははっきりしませんが、平賀源内と司馬江漢(1747 - 1818)が「写真鏡」の命名者であるとされているようです。司馬江漢が写真鏡を使っていたことは、色々な文献から明らかです。一方、平賀源内がこれを使っていたらしいことは、上記「映像の起源」によれば、源内の「西洋婦人図」(神戸市立博物館)とほとんど同じ「西洋婦人図」(伝・平賀源内、秋田県立美術館)があることや、Gaseo作「西洋男女図」(神戸市立博物館)の女性の部分を左右反転するとこの絵画とそっくりになる事から源内が写真鏡を使って映像をトレースしていたのではないかと推測されています。このように、17世紀中葉に我が国にもたらされたカメラ・オブスキュラは18世紀後半には広く使われるようになっていたようですが、これらは皆レンズを用いたカメラ・オブスキュラであると考えられます。では、日本におけるピンホール現象そのものについての歴史はどうなっているのでしょう。

 実は、まさにピンホール現象について記した江戸時代の記録があります。葛飾北斎(1760 - 1849)が絵本「富岳百景」(1834)の中に「さい穴(節穴)の不二」という作品を残していることです。この作品はかなり有名で色々なところで引用されています。同様のピンホール現象の絵は、滝沢馬琴の「兼阳かげとひなたの)珍紋圖彙」(1803)という書物にもあります。 その内容は、同じく滝沢馬琴の書いた旅行記「覊旅漫録」(1801)第23項「五綵(ごしき)の山水」と同じものです(「覊旅漫録」の方には絵はありませんが)。ここには、三州新堀の木綿問屋(豪商)深見荘兵衛の息子の狂歌師朝倉三笑の納戸の節穴から一尺の所に紙を置くと十間先の泉水・草木が色つきで写り、そこに干してあった子供の手習い草紙の表紙の文字やそこに立たせた子供の目鼻、衣服の模様、竹や柳の動きに見られる風のそよぎや池のさざ波まではっきり見えることに驚いて絵(「兼阳珍紋圖彙」:上図)にしてあります。この現象については、「蘭畫びいどろかゞ みといふものに似たり」と表現して、この「蘭畫びいどろかゞ み」については戸をたてこめて内はうすくらうして外より影をとるなり)という注を付けてあります。「びいどろかゞみ」は文字通り「ガラス製の鏡」と言う場合にも「望遠鏡」という意味にも使われていたようですが、この場合には、明らかに「部屋型のカメラ・オブスキュラ」を表しているように思われます(「びいどろかゞみ」ですからこのカメラ・オブスキュラはピンホールではなくてレンズを使ったものでしょう)。また、この現象に関しては、京都の百姓丹羽又左衛門の納戸の節穴から東寺の塔が写ること及び信州上の諏訪の薬師堂の裏の羽目板の節穴でも同様の現象が見られることを記してあります。倒立像が得られることはいずれの書物にも指摘されていますが、このことについて特別なコメントはしていません。さらに、これらの書物は14世紀の中国の書物である陶宗儀(Tao Zongyi, 1316 - 1369)著「輟畊(耕)録」(Chuo Geng Lu, 1341)の卷15の第14項「塔影入屋」に記されているピンホール現象のことを引用している他、前に記した 段成式の「酉陽雑爼」についても触れていて、こういう現象は「外国にも昔からあるのだ」というコメントをつけています。この「輟畊録」は30巻から構成されていて、日本では承応元年(1652)に発行されていますから、滝沢馬琴は、多分、日本で出版された本を読んだものと思われます。「覊旅漫録」の該当個所の欄外には「塔影入屋」の文章がそのまま印刷されています。


 ここで興味深いのは、馬琴は、ピンホール現象について多数の事例を知りながらこれらを一般化していないことです。馬琴は、「世間ではこういうことが時々あるのだろうけれど普通は戸や羽目板に節穴などがなくて、しかも、いつも人が行くところではないので気がつかないのだろう」とは書いてありますが、アリストテレスのように、「重なり合った広葉樹のすきま」からの光がピンホール現象を起こすということを篭の目とか人の指で作った小穴にまで拡張するようなことはしていません。どうも、書いてあることから判断して、ピンホール現象が観測されているそれぞれの場で節穴が何か特別な力を持ってその現象を起こしていると考えていたのではないかと思えます。このように考えると、 段成式の「酉陽雑爼」の中で「海の傍であることが倒立像を作る」という「誤った理論」が出てきた事情がわかるような気がします。北斎や馬琴の活躍した当時、カメラ・オブスキュラについてはある程度世間に知られていたけれども、ピンホール現象については余り知られていなかったのではないだろうかと思われます。さらに、上のようなことを考えると、葛飾北斎や滝沢馬琴はこの「ピンホール現象」と当時使われていた「(箱形)カメラ・オブスキュラ」との関係にも気がついていなかったのではないかという想像までかき立てられます。現在、私たちは「レンズ付きカメラによる写真と比べてピンホール写真はソフトでよい」等と「ピンホール写真の価値」を認めますが、当時はレンズ付カメラ・オブスキュラと比べて実用的な観点からは利点が少ないと思われるピンホール付きカメラ・オブスキュラというものは、通常、余り関心を持たれなかったのだろうということも考えられます。


 ところで、葛飾北斎は生涯で30回も号を変えていますが「北斎」の号を用いたのは「椿説弓張月」等の馬琴の書物の挿し絵を描いていた頃だけと言われており、これは1800年代の初期のことです(ただし、「兼阳珍紋圖彙」の挿し絵は葛飾北斎によるものではありません)。そして、「覊旅漫録」と「兼阳珍紋圖彙」が、それぞれ、1801年、1803年に出版され、「富岳百景」が1834年に出版されています。このようなことから、ピンホールについての情報は、陶宗儀⇨滝沢馬琴⇨葛飾北斎と伝わっていったことが想像できます。前田靖宏さん(現JPPS事務局長)と話していてそのようなコメントをいただき年代を調べてみました。ちょうど同じ頃、これとは独立に西洋から伝わってきたカメラ・オブスキュラは絵師の間で先端技術として使われていたわけで、葛飾北斎もその使用経験があったのかもしれないと思われます。

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