Atelier Bonryu

pinhole photography

 
 

ピンホール写真_研究室

ピンホール写真の歴史ーカメラ・オブスキュラの時代

カメラ・オブスキュラの時代:ピンホールカメラが、今のカメラに直接つながるような装置になっていったのはいつごろなのでしょう?


 西洋におけるアリストテレスから現代の写真技術に至る道程には、カメラ・オブスキュラに関係ある膨大な記録が残されています。これらについては詳しい研究がなされていて研究論文はもちろん優れた解説も多数ありますから、ここでは詳しくは述べないことにします。


 ルネッサンスの前のヘレニズム時代および古代ローマ時代には、西欧諸国においてピンホール現象は余り話題にならなかったようです。この時期におけるピンホール現象に関する最も重要な人物はアラビアの博物学者である アルハゼン(Abu ‘Ali al-Hasan ibn al-Hasan ibn al Hautham, Alhazen: 965? - 1039?)です。アルハゼンは、物理学や数学の分野で数えきれないほどの貢献をしています。彼は、近代光学の父と呼ばれておりピンホール現象について正しく解析して記述しています。実際、彼は世界で初めて「カメラ・オブスキュラ」を作り、これについていくつかの実験をしています。また、彼は、この装置を日食観測に使っています。彼が、この「カメラ・オブスキュラ」について研究していた時に、彼はこの装置を”Al-Bayt al-Muthlim”と命名しましたが、これは英語で言うと”dark room”と言う意味になります。したがって、ラテン語にすると”camera obscura”と同義です。因みに、この装置を最初に”camera obscura”と呼んだのは、Johannes Keplerであるとされています(1604)。


 さて、ルネッサンス期のカメラ・オブスキュラの時代に重要な役割を果たしたキーパーソン達について触れておきましょう。まず、英国の哲学者でフランチェスコ会の修道士であった ロジャー・ベーコン(Roger Bacon: 1214 - 1294)がいます。かれは、イスラムの科学を西欧諸国に導入しました。その中には光学も含まれており、特に日食観測に使われていたカメラ・オブスキュラを導入したことで知られています。さらに、建築家で透視図法の確立に貢献した フィリッポ・ブルネルスキー(Fillippo Brunelleschi: 1377 - 1446)がいます。また、万能人(uomo universale)と呼ばれた レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci: 1452 - 1519)は眼の構造と機能を研究する過程でカメラ・オブスキュラを設計して、彼の著書” Codex Atlanticus (1490)”の中にカメラ・オブスキュラのことを書いています。一方、カメラ・オブスキュラの利用者としても多数の芸術家や研究者がいます。世界的にも有名な芸術家として、ドイツの画家の アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer: 1471 - 1528)、オランダの画家の ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer: 1632 - 1675)がいます。後でも述べるように、現代物理学の揺籃期に重要な役割を果たしたニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus: 1473 - 1543)、ティコ・ブラーエ(Tycho Brahe: 1546 - 1601)およびヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler: 1571 - 1630)は天体の観測にピンホール望遠鏡を使ったと考えられています。特に、ケプラーは、フランチェスコ・マウロリコ(Francesco Maurolico: 1494 - 1575)とは独立にアリストテレスの問題を解いたとして知られてもいます(※注1)。彼らの他にも、ルネッサンス期の多くの芸術家、建築家、天文学者、数学者、その他の人々、がカメラ・オブスキュラの利用者あるいは研究者として広く知られています。


 中国に目を向けると(※注3)、墨子以降、いくつかのピンホール関係の資料があります。ニーダムによれば、唐や宋の時代にはピンホールや暗箱の実験が興味をもたれたようですが、その理解に特に大きな進展があったようには思えません。むしろ、 段成式(Duan Cheng Shi, 803? - 863)による「酉陽雑爼」(Youyang Zazu、863)にはピンホール現象において像が倒立することについて全く誤った解釈が為されていて墨子の時代からさらに逆行しているような印象を受けます。もっとも、その後出版された沈括(Shen Kuo、1031 - 1095)による「夢渓筆談」(Meng Xi Bi Tan、1086)ではピンホール現象について正しい記述が為されていて、 段成式の間違いについても指摘されています。この本には、ピンホールで投影した時に、鳥が東に飛ぶとその影は西に動くことや塔を見るとその像は倒立して見えることが記されています。また、中国の科学技術史に関して特筆しておくべきことの一つは、天体観測の記録が豊富にあることです。これらの記録のほとんどはピンホール現象に直接関係あるとは思えませんが、紀元前28年から太陽黒点の記録が系統的にあることは、西洋での黒点発見がルネッサンス期にカメラ・オブスキュラが普及して後であることと比べると注目に値します。太陽黒点は光学系の像を投影するか何らかの方法で減光した太陽を目で直接見て観測するのが普通ですが、中国では朝夕太陽が地平線に近く光が弱い時にしかも特別大きな黒点を観測したものと思われます。ピンホールを使ったという証拠は見いだされていないようです。


 ところで、「カメラ・オブスキュラ」というとき、まずピンホール現象と結びつけて考えられがちですが、実用的に用いられたのは、当時既に発明されていたレンズを用いたものであったようです。ピンホール現象を用いたカメラ・オブスキュラでは室内で使うには暗すぎて実用的ではなかったものと考えられます。美術史の観点から見るときにはカメラ・オブスキュラをことさら「ピンホール現象を使ったもの」と「レンズを使ったもの」に分ける必要もないでしょうが、ピンホール・カメラの歴史に限って考える時には注意が必要です。

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